
一九八六年八月十七日から二十一日までの五日間、京都市伏見区醍醐伽藍町の醍醐寺に出張して、継続事業の史料調査・撮影を行った。
前年に引続いて第一七五函3号から第一七六函までの聖教はマイクロフィルムに、第一三四函の各種の絵図は適宜カラー4×5・カラーブローニー・モノクロ4×5・マイクロフィルムに撮影した。また分離・破損の甚だしいものは借用し、本所技官中藤靖之によって接合・修補を行った。その結果、一九七八年に発見され、接合された尾張国安食荘絵図・山城国笠取荘絵図の他に、笠取荘絵図の土代二鋪を新たに復元接合することができた。 借用した絵図のうち三点は八七年二月に(株)便利堂による8×10撮影を、その他は六月にカラー及びモノクロ4×5撮影を行った。
醍醐寺文書第一三四函はこのように調査し、接合修補した結果、「醍醐寺文書記録聖教目録」に一部移動が生じることになった。その目録と撮影状況とを以下に掲げる。数字は縦×横センチメートル。
カラー カ=カラー4×5、 ブ=カラーブローニー、
モノクロ 半=半切、8=8×10、 4=4×5、マ=マイクロ
●=一九八六年修補 〇=一九七八年修補
一 宀一山図 一 嘉元四年十月廿四日写 二八・二×四二・一 4マ
二 二六・一×四一・五 4マ
二 宀一山之図仏隆寺之図 一 三九・七×五〇・九 カ マ
二 四〇・〇×五〇・〇 カ マ
三 宀一山図形 宝永七歳六月十日写 四〇・四×五六・八 4マ
四 伊豫阿波国図 (四国八十八箇所の図)
四紙散々 一紙 三〇・三×四三・二 マ
五 美濃国室松寺領分図 七一・一×九九・三 4
六 醍醐村南総領之内絵図 享保五年 三二・五×九七・二 カ マ
七 千吉被下山絵図之扣 享保五年 三二・五×四八・八 カ マ
八 笠取村図 五五・八×八五・三 半〇
九 醍醐領陀羅谷山守共居仕候新家場所之絵図 三〇・五×四八・五 カ
一〇 大住村堤切水荒之絵図 享和二年 八二・〇×一一九・五 8●
一一 上醍醐東坂伽藍領山林之図 宝暦四年十一月 五六・六×八二・一 カ4●
一二 領地絵図断片并山城綴喜郡大住村百姓連署書付 宝暦七年
四〇・五×八〇・五 カ マ
一三 小野山堺図 慶長六年八月十四日 二七・三×三九・五 マ
一四 下野等藪ノ分斉事 明応四年 二三・八×三八・〇 マ
一五 閼伽井廻リ境図等 一 元禄十四年 八四・五×八一・八 カ4●
二 六七・五×七七・〇 カ4●
三 五六・九×四一・四 4●
四 三〇・八×四三・八 カ4●
一六 隆済僧正筆境之図 文明五年二月廿七日 二八・六×四六・七 4マ
一七 桧山堺図 八一・五×八二・五 カ4●
一八 字浄林山絵図 二七・五×五三・四 マ
一九 境界図 雑々
一 浄円法師房指図 二七・七×五三・四 4マ
二 東かぎ尾等坪指図 四六・六×三一・七 マ
三 よしの川上市下市周辺小守蔵王等経由道中指図
二三・一×三二・九 カ マ
四 古市新道・清水地蔵近辺絵図 五九・一×一二八・四 カ4●
五 御廟(泉涌)陵之図1 三二・九×二四・三 マ
2 三八・五×二五・九 マ
3 五一・〇×三六・一 マ
六 醍醐小野領境論所絵図 三四・六×四七・六 マ
七 寛政四年島原地震図 九七・八×五六・二 カ4●
八 尾張国安食荘絵図 七三・二×九四・七 半〇
二〇 三国総図 五一・三×七四・二 カ
二一 朝鮮国之図 五一・三×七四・〇 カ
二二 琉球国之図 五一・四×七四・〇 カ
二三 蝦夷国之図 五〇・四×九二・一 カ
二四 〓蘭新訳地球全図 寛政八年印行 五四・三×九三・〇 カ
二五 南譫部州万国掌菓之図 宝永七年版 一二三 ×一四六 4
二六 大明九辺万国人跡路程全図 康熈二年版 一二一・七×一二二・三 カ
二七 江戸城中細図 八二・〇×一一〇 4
二八
一 自御室戸至于山上指図 寛正五年九月十五日
全五紙、現存四紙(上中下三紙の上の部分の右に二紙を縦に
継ぐところ左下一紙欠) 五二・六×九三・二 半〇
二 山城国笠取荘絵図 八〇・一×一三六・九 半〇
全九紙、一鋪に接合
三 山城国笠取荘絵図土代 一 八〇・〇×一三二・二 8●
全九紙、現存八紙、一鋪に接合、右下一紙欠
四 山城国笠取荘絵図土代 二 七九・九×一三五・二 8●
全九紙、現存八紙、一鋪に接合、中央一紙欠
外に四紙 散々 ブ
二九 醍醐寺境内及諸建造物見取図粉本等 明治四一年綴
三五枚 各 二七×三八・五 ブ
三〇 上下伽藍并三宝院見取図等
二一枚 各 三八×二四 ブ
(岡田隆夫・山田邦明・鶴田啓・山口英男・吉田成)
『東京大学史料編纂所報』第22号p.106